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肘折温泉郷の話題

肘折温泉を訪れた歌人たち

 

斎藤茂吉鹿児島寿蔵結城哀草果結城健三正岡子規河東碧梧桐名和三幹竹

 

【斎藤茂吉】(さいとう もきち)

 斎藤茂吉(1882−1953)は、上山の金瓶(かなかめ)に生まれた歌人・医師。伊藤左千夫(さちお)に師事、「アララギ」の中心的同人。茂吉は、昭和20年(1945)、戦火を避けて故郷の金瓶に疎開、翌21年1月、弟子の板垣家子夫(いたがき かねお)に伴われて大石田に移り、22年11月東家に帰るまで、二戸部(にとうべ)家の離れ聴禽書屋(ちょうきんしょおく)に独居した。
肘折温泉  板垣家子夫(1904−1982)は、大石田に生まれたアララギ派歌人。家子夫は茂吉の愛弟子で、上山に疎開していた茂吉を昭和21年大石田に迎えた。
  茂吉と家子夫は、茂吉が東京に帰る直前の、昭和22年9月17日、大石田の佐藤茂兵衛(セトヤ)、新庄の斎藤豊太郎(斎藤医院)と加藤表具師を伴って、新庄駅からバスに乗り、湯の台で降りて肘折温泉まで歩き、温泉に着いて松井旅館に2泊した。18日は加藤表具師の案内で地蔵倉や銅山跡に遊び、19日は午後3時半頃のバスで新庄に戻り、斎藤医院で夕食をとり、夜になってから大石田に帰った。この肘折温泉行きで茂吉が詠んだ歌のうち11首は『白き山』に納められているが、ここでは、松井家にある「肘折温泉と斎藤茂吉」から抜粋して引用しておく。

(1)肘折のいで湯浴(あ)みむと秋彼岸の狭間路(はざまじ)とほくのぼる楽しさ
  ※この歌は加藤表具師所蔵の短冊で、昭和48年(1973)11月に大蔵村観光協会で建立した歌碑に刻まれている。

(2)のぼり来し肘折の湯はすがしけれ眼(まなこ)つぶりながら浴(あ)ぶるなり
  ※この歌は『白き山』に収められている。

(3)山ふかく湧きいづる湯はあきらけき験(しるし)のありて永久(とわ)につづかむ
  ※この歌は講談社『白き山と最上川』に収められている。

(4)泡だちて湧きくる泉の香を好しと幾むすびしつけふの日和に
  ※この歌は、平成6年(1994)3月大蔵村金山(黄金温泉)のカルデラ温泉館敷地に建立された歌碑に刻まれている。
  なお、「肘折の」・「山ふかく」・「泡だちて」の歌は、岩波書店『斎藤茂吉全集』第28巻手帳65にある。
  この時、茂吉に同行した家子夫が肘折温泉で詠んだ歌を、板垣家子夫の歌集『練武』(石川書房)から抜粋して引用しておく。

(5)おほよそ黄葉(もみじに)にうつる谷山に天(あめ)の光りは遠く差し来つ
(6)高原の道ひとり来し少年の呉れし木通(あけび)は少しく固し
(7)豊牧の山のをみな子が朝市に売る舞茸をあたひ値切り買ふ

 

温泉下駄肘折でサイダーを飲んだ斎藤茂吉翁
歌人斎藤茂吉翁は、昭和22年9月17日から19日に肘折温泉(松井旅館)に門弟とともに滞在し、数々の詩を詠んでいる。
肘折温泉を散策し、大蔵鉱山跡を訪れた帰り道に道端で湧き出ている炭酸泉を案内されて、斎藤茂吉翁は備え付けてあった茶碗で2〜3杯も飲み子どものように驚き喜んだという。
その時詠んだ詩は
「泡立ちて 湧きくる泉の香を好しと 幾むすびしつけふの日和に」

 

【鹿児島寿蔵】(かごしま じゅぞう)
鹿児島寿蔵(1898年12月10日-1982年8月22日)は福岡市博多に生まれた歌人・人形作家。島木赤彦に師事、斎藤茂吉と並びアララギ派歌人。また、奈良時代の塑像(そぞう)人形を研究、独自の紙塑(しそ)人形を創製し、重要無形文化財に指定された。寿蔵が昭和28年に肘折に訪れて詠んだ歌を、『大蔵村郷土研究ノート』から引用しておく。

(1)銅山川へだてて青き大地より郭公(かっこう)ひびく梅雨のあさあけ
(2)茅(かや)ぶきの大屋根ならぶ肘折の峡(かい)ふりこむるさみだれの雨
(3)せきの水今朝も澄みつつ流れをり燕(つばめ)出(い)で入る草屋根の下

 肘折の川

【結城哀草果】(ゆうきあいそうか)
  結城哀草果(1893−1974)は、山形市下条町の黒沼家に生まれ、同市本沢村(菅沢)の結城家の養子となった。斎藤茂吉に師事、アララギ派歌人。哀草果は終生山形を離れず、斎藤茂吉記念館長となった。哀草果が肘折を訪れて詠んだ歌を『大蔵村郷土研究ノート』から引用しておく。

(1)燕とぶ肘折温泉朝たけて銅山川の合流も見ゆ
(2)唐松が青くかぎる屋根へだつ切り立つ山の巌うつくし
(3)堰堤を平に川は煙り落ち布引く水のとどろくをきけ

 

【結城健三(柚村みのる)】(ゆうきけんぞう ゆずむらみのる)
  結城健三(1900−1995)は、宮内(南陽市)に生まれた歌人。柚村みのるの筆名に隠れていたが、橋田東声(とうせい)の「覇王樹」(はおうじゅ)系歌人。 1日として歌わざる日なしという生涯を送った。童謡「ないしょ話」の作詞者結城よしをは健三の長男である。結城健三が秋の肘折を訪れて詠んだ歌を『大蔵村郷土研究ノート』から引用しておく。

(1)かや屋根の幾つたたまる肘折の湯ところにきてこころ稚(おさな)し
(2)鋼山川の湍ちしづけく夜くだちて聞けば聞かるる秋虫のこえ
(3)葛(くず)の花むらさきうすく咲き古りて肘折の秋はふけにけるはや

 

【正岡子規】(まさおかしき)
  正岡子規(1867−1902)は、愛媛県松山に生まれた明治時代の俳人・歌人。東大中退後、日本新聞社に入社。写生俳句を唱え、俳誌『ホトトギス』を創刊し、多くの新人を育てた。また、万葉調に立脚した写生短歌を唱え、アララギ派の基礎を築いた。
肘折  子規は、新聞社に入社した翌年、明治26年(1893)7月19日、「先ず松島とは志しながら行くてはど何こ處にか向はん」と上野駅から汽車で東北の旅に出た。26蔵のときである。「みちのくへ涼みに行くや下駄はいて」と戯れながらも、33日間の長い旅であった。その紀行が『はて知らずの記jである。
  仙台に着いた後、しばらく松島などに遊んだ。やがて、8月6日、作並温泉から関山峠を越えて東根に入り、楯岡に1泊。7日は大石田に泊まって、翌8日には大石田から川船で最上川を下った。子規を乗せた川船が烏川に着いたのはその日の正午であった。烏川では4、5人が船から降りたので、残るは5、6人となり、しきりに談笑しているが、その言葉はなまりが強く子規にはわからなかった。だから、ひとりとも艫べ辺にたたずんで、四方の風景を見ていた。烏川から本合海まで下る間に、子規が詠んだ句を『はて知らずの記』から引用しておく。

(1)舟引きの背丈短し女郎花(おみなえし)
(2)蜻蛉(かげろう)や追ひつかむる下り船
  その後、子規は古口に1泊して清川まで船で下り、清川から陸路酒田に着いた。酒田からは秋田、岩手をまわって8月20日に帰京した。

 

湯船【河東碧梧桐】(かわひがしへきごとう)
  河東碧梧桐(1873−1937)は、愛媛県松山に生まれた俳人。正岡子規に俳句を学び「ホトトギス」同人。高浜虚子と並んで頭角をあらわす。定型や季語を離れた新傾向俳句を唱え、のち自由律俳句に変わった。
  碧梧桐は全国行脚を思い立ち、明治39年(1906)8月東京を出発、その紀行が『三千里』である。まず、東北・北海道に向かった。翌明治40年9月、北海道からの帰路は湯沢から新庄に入った。新庄に着いたのは9月20目の朝であった。その日の午後から、挫いた左足を癒すため肘折温泉に向かった。夕方近く肘折に着
いたが、「浴客二千ただ熱閙(ねっとう)を極めてをる」状態で、二軒の宿に断られて、三軒目でようやく相宿(あいやど)を頼んで一夜の雨露を凌いだ。やがて一人部屋になり、肘折には11日間も逗留(とうりゅう)した。次に碧梧桐が肘折逗留中に詠んだ句を『三千里』から引用しておく。

(1)裸湯の人猿が見る秋晴れて(石抱温泉にて)
(2)ささやかな鉱山あるや栗拾ひ(大蔵金山にて)
  その後、碧梧桐は肘折から上山・山形に行き、再び山形から大石田・尾花沢に来て、芭蕉のあとを訪ねた後、最上川を舟で下り、清水に1泊して酒田へ向かった。清水即景の句を『三千里』から引用しておく。
(3)霧晴るる向ふ峰劃(かく)す大河かな

温泉街 

【名和三幹竹】(なわさんかんちく)
  名和三幹竹(1892−1975)は、谷地(河北町)に生まれた浄土真宗の僧侶で俳人。「懸あおい」(京都)を主宰した大谷句(おおたにく)仏の勧めで京都に出て、宗門研究のかたわら俳句を学ぶ。三幹竹が肘折を訪れ、磧湯(かわらゆ)という名湯を詠んでいる。その句を『大蔵村郷土研究ノート』から引用しておく。

(1)河鹿(かじか)聞いて暗さ磧湯覗きけり
  肘折には磧湯と称する名湯があり、屋根はあっても露天に等しく、老若男女がその湯を浴びたという。

 

(参考:『肘折読本』p23より)

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